「二度とマン島は走らない」アゴスティーニがマン島TTを降りた日
パドック・エピソード 師と、宿敵と、決別と〜アゴスティーニ、パドックの人間模様〜
その1:師匠は最大のライバル〜マイク・ヘイルウッド〜
1965年、MVアグスタに加入した22歳のアゴスティーニを迎えたのは、当時の絶対王者マイク・ヘイルウッドだった。
普通なら、若手は脅威であり潰す対象だ。だがヘイルウッドは違った。彼はイタリアから来た新人に走り方を教え、面倒を見た。事実上の師匠である。アゴスティーニ自身、後年までヘイルウッドへの敬意を語り続けている。
だが運命は残酷で、そして面白い。翌1966年、ヘイルウッドはホンダへ移籍し、二人は敵同士になる。そして1967年——GP史に残る死闘が幕を開けた。
500ccクラス、両者一歩も譲らず5勝ずつ。ポイントも並び、タイトルは2位の回数という僅差で決まった。軍配はアゴスティーニ。教え子が、師を超えた瞬間だった。
勝負の世界の非情さと、それでも消えない敬意。二人の関係は、スポーツにおける師弟の一つの理想形かもしれない。
その2:気難しき伯爵〜ドメニコ・アグスタ〜
MVアグスタを率いたドメニコ・アグスタ伯爵は、名門の総帥にふさわしい、そして相当に気難しい人物だったと伝えられる。
ヘイルウッドがMVを離れてホンダに移った理由の一つも、この伯爵との関係に疲れたからだったという。契約、マシン開発の方針、レースへの出否——全ては伯爵の胸三寸。ライダーは腕一本で伯爵の信を勝ち取るしかなかった。
その難しいパトロンの下で7年もエースを張り続けたのだから、アゴスティーニの世渡り上手というか、人間的な強さも大概である。速いだけでは、あの椅子には座れない。
その3:1972年、マン島との決別
アゴスティーニのキャリアで最も重い決断が、1972年に下される。
その年のマン島TT、125ccクラスで親友ジルベルト・パルロッティが命を落とした。全長約60km、公道を封鎖しただけの超高速コース。安全設備は皆無に等しい。アゴスティーニはマン島TTを10勝している「マン島の王」の一人だったが、親友の死を前に宣言する。
「私は二度とマン島を走らない」
当時のマン島TTは世界GPの1戦であり、カレンダー上最も権威あるレースだった。それをボイコットするというのは、王者の座を賭けた造反に等しい。だが彼に他のトップライダーたちも追随し、1976年を最後にマン島TTは世界GPから外された。
「伝統」と「命」を天秤にかけ、命を選んだ男。現代の目で見れば当然の判断に思えるが、当時のパドックでこれを言い切るには、王者の実績と、それ以上の覚悟が必要だった。速く走ることよりも勇気の要る仕事を、アゴスティーニはやってのけたのだ。
先月のバリー・シーン月間でも触れた「ライダーの命が軽すぎた時代」。その流れを変えた転換点の一つが、この決断だった。
その4:招かれざる同僚〜フィル・リードとの確執〜
1973年、MVアグスタはイギリスの老練フィル・リードを迎え入れる。アゴスティーニにとっては、7連覇中の自分の庭に他人が土足で入ってきたようなものだ。
そしてこの年、500ccタイトルはリードのものになった。チーム内の序列、マシンの割り振り、伯爵の寵愛——その全てが絡み合った末の王座交代劇。アゴスティーニの心中は察するに余りある。
結果、彼はMVを飛び出しヤマハへ移籍。1975年、2ストのYZR500でリードとMVを打ち破り、王座を奪還した。この顛末は先週書いた通りだが、パドック目線で言えばこれは単なるタイトル争いではなく、追い出された男の意趣返しでもあった。
因縁、確執、意地。1970年代のGPが今なお語り継がれるのは、マシンの狂気だけでなく、人間の物語が濃かったからだと思う。
その5:監督アゴ、王朝を育てる
引退後の1982年、アゴスティーニはマルボロ・ヤマハの監督としてパドックに戻ってくる。
率いたライダーの名を並べると壮観だ。グレーム・クロスビー、ケニー・ロバーツ、そしてエディ・ローソン。ローソンとは3度の500ccタイトルを共に勝ち取った。70〜80年代のGPを席巻した「アメリカン王朝」の一角は、イタリアの老王の采配の下で花開いたのである。
ライダーとして15冠、監督としても王者を輩出。この男、どこまでも勝つことをやめない。
来週はアゴスティーニ月間の総まとめ。そして来月の主役をヒントでお伝えします——お楽しみに