1970〜80年代、2ストローク500ccの世界グランプリを走った男達を、毎月1人ずつたどる読み物です。

ケニー・ロバーツ:ダートの土埃を連れてきた男

ケニー・ロバーツ

ケニー・ロバーツ列伝

1978年、ヨーロッパのパドック。

そこに集まっていたベテランたちの目に、その男はどう映っただろうか。革ツナギの着こなしも、マシンへの跨り方も、コーナーへの入り方も、何かが違う。リアタイヤを豪快に流しながら向きを変えていくその走り方は、当時のヨーロッパのロードレース界の常識であったグリップ走行からすれば「荒っぽい」以外の何物でもなかったはずだ。

その男の名は、ケニー・ロバーツ。アメリカのダートトラックからやってきた、グランプリの世界にとってはほとんど「異物」のような新人だった。

だが、この異物はやがてパドックの空気そのものを変えてしまう。走り方も、稼ぎ方も、ライダーの発言権も。ケニー・ロバーツという一人の男が、500ccグランプリという舞台を「土埃の匂いがするアメリカ流」で塗り替えていく物語を、今月は追いかけていきた

カリフォルニアの土の上で育った反骨

ケニー・ロバーツは、1951年12月31日、アメリカ・カリフォルニア州モデスト近郊で生まれた。

彼が最初に頭角を現したのは、舗装路のサーキットではなく、固められた土の上――アメリカのダートトラックレースだった。AMAグランドナショナル選手権という、マイルレース・ハーフマイル・TT・ロードレースを転戦する過酷な総合選手権で、ロバーツは1973年・1974年と2年連続でこの選手権を制し、早くからその実力を証明していた。

中でも語り草になっているのが、1975年、インディアナポリスのマイルダート「インディ・マイル」でのレースだ。TZ750エンジンを積んだフラットトラッカーを駆り、並み居るライバルたちがリアタイヤのグリップを恐れて慎重に走る中、ロバーツは最後尾からリアを豪快にスライドさせながらフルスロットルで追い上げ、そのまま優勝をさらっていった――そんな逸話が、後年何度も語り継がれることになる。

このダートトラックで培われた「リアを流しながら向きを変える」乗り方こそが、のちにヨーロッパのアスファルトの上で、彼のトレードマークになっていく。

コンチネンタルサーカスという異世界への殴り込み

1978年、ロバーツはヤマハのファクトリーライダーとして、500ccグランプリ世界選手権へのフル参戦に踏み切る。
(この年のフル参戦に先立ち、1974年にオランダダッチTT(アッセン)で250ccクラスにスポット参戦し、ポールポジション獲得・3位入賞という記録も残している)

当時のヨーロッパのグランプリは、幼い頃からロードレースの英才教育を受けてきた選手たちの世界だった。バリー・シーンをはじめとする顔ぶれが、洗練されたライディングでタイトルを争っていた時代――そこへ、ダートトラック仕込みの荒々しいスタイルを引っさげて乗り込んできたアメリカ人。最初は「アメリカ流の余興」くらいに見られていたとしても不思議はない。

だが、蓋を開けてみればロバーツはいきなりトップ争いに加わり、ルーキーイヤーとなったこの1978年、全11戦で4勝・8表彰台という圧倒的な成績を残して世界チャンピオンを獲得する。500ccグランプリ史上、デビューイヤーでのチャンピオン獲得はこれが初めてのことだった。

腰をイン側にずらしたままコーナーに飛び込み、リアタイヤを流してマシンの向きを変えていく――今でこそ「ハングオフ」として当たり前の光景だが、当時のパドックにとってそれは衝撃だった。ロバーツ以前と以後で、500ccマシンだけでなく2輪レースでの「コーナリングの常識」そのものが変わった、とすら評されることがある。
(ハングオフを最初に持ち込んだのはヤルノ・サーリネンだとされています(1972年、米オンタリオでのレースをロバーツ自身が間近で観察したという記録があります)。ロバーツはそれを取り入れてさらに誇張・発展させ、グランプリの世界に定着させた側という位置づけが一般的でしょう)

黄金期 ―― "キング"の称号

ロバーツはその後、1978年・1979年・1980年と、3年連続で500ccクラスの世界チャンピオンに輝く。この3連覇はいずれも500ccクラス単独の記録であり、彼はこの偉業によって「キング・ケニー」という愛称で呼ばれるようになった。

同時代には、7月に取り上げたバリー・シーンをはじめとするライバルたちがいた。ヨーロッパの洗練されたスタイルとアメリカのダートトラック仕込みのスタイルがぶつかり合う光景は、当時のファンにとって大きな見どころだったはずだ。

そして、多くの読者が気になっているであろう「あのシーズン」――1983年、若きライバルとの世界タイトル争い――については、この9月の連載では深追いしません。あまりに濃密なシーズンであるため、別途あらためて独立した特集として企画する予定です。今月はあくまで、ロバーツという人物そのものの歩みに焦点を当てていきます。

レーサーの権利のために戦った男

ロバーツを語るうえで欠かせないのが、単なる速さだけではない一面――ライダーの待遇・安全性への取り組みだ。

当時のグランプリは、ライダーの発言権が今よりずっと弱く、賞金体系やレース運営にライダー側の意見が反映されにくい時代だった。ロバーツはそうした構造に対して声を上げた中心人物の一人で、1979年のベルギーGPでは、ヴィルジニオ・フェラーリとともにコースの安全性を理由としたボイコットを主導した。同年末には、既存のグランプリ運営に対抗する「ワールドシリーズ」構想を打ち出し、ライダー側からレース運営や安全基準に物を申す姿勢を鮮明にしている。

この「ライダーの安全性」というテーマは、実は今月だけの話では終わらない。10月に取り上げる予定のライダーも、後年セーフティオフィシャルという役職に就き、レースの安全性向上に携わったとされている。ロバーツが体を張って切り開いた道が、その後の世代にどうつながっていくのか――そのあたりも、今後の連載で少しずつ拾っていきたい。

引退後 ―― チームオーナーとしての第二の人生

現役を退いた後のロバーツは、単なる「過去の名選手」で終わらなかった。自身のチーム「チーム・ロバーツ」を設立し、チームオーナーとしてグランプリの世界に関わり続けた。1990年には、ウェイン・レイニー(500ccクラス)とジョン・コッチンスキー(250ccクラス)を擁し、自身のチームから二階級同時制覇という快挙を成し遂げている。

そして、息子ケニー・ロバーツ・ジュニアは2000年、スズキのマシンで500ccクラスの世界チャンピオンに輝いた。父子そろって500ccクラスの世界王者となったのは、グランプリ史上初めてのことだった。

ダートの土埃を連れてグランプリに殴り込んできた男は、やがてパドックの側からレースそのものを作る立場になった。ライダーとして、そしてチームオーナーとして、ケニー・ロバーツという名前は500ccグランプリの歴史の中に深く刻まれている。

鈴鹿8時間耐久レース

1985年鈴鹿8耐に、GP引退済みの”キング”ケニー・ロバーツが日本No.1平忠彦とペアを組み、ヤマハTECH21チームとして参戦した。マシンはFZ750ベースの耐久仕様FZR750。予選でロバーツはTT-F1レコードを更新するタイムでポールを獲得するも、決勝スタート直後にエンジン始動に手間取り最後尾近くまで出遅れる。しかしロバーツは驚異的な追い上げを見せ、20周目には2番手に浮上、平に交代後の38周目にはガードナー/徳野組(ホンダ)を抜いてついにトップへ。そのまま夕方まで首位を守り初優勝が確実視されたが、ラスト30分、平のマシンがシフトダウン時に異音を発し、オイル漏れを警戒してゴール手前で停止、そのままDNC(完走扱い外)に終わった。優勝はガードナー組。悲劇的な結末ながら、この激走こそが8耐史上屈指の伝説として語り継がれる名レースとなった。

次週は、ロバーツが実際にどんな戦いを繰り広げたのか――シーズンごとの戦績を、レースの流れとともに追いかけていきます。

余談

ケニー・ロバーツの奥さんは熊本県出身の方で、ロバーツも阿蘇周辺の道路をいたく気に入っているようです。阿蘇の南側を走る阿蘇グリーンロードは、別名、ケニーロードと呼ばれ阿蘇を訪れるライダーたちに親しまれています。

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