1970〜80年代、2ストローク500ccの世界グランプリを走った男達を、毎月1人ずつたどる読み物です。

0.03秒差の死闘|ケニー・ロバーツ3連覇の1978-80年

ケニー・ロバーツ

シーズンレビュー ―― 1978×1979×1980、三年連続の頂上決戦

前回、こう予告した。「ロバーツが実際にどんな戦いを繰り広げたのか――シーズンごとの戦績を、レースの流れとともに追いかけていきます」と。

列伝で語ったのは、あくまで「点」としての事実だった。ルーキーイヤーでの戴冠。3年連続のタイトル。安全性への闘い。だが、その「点」と「点」の間には、レースからレースへとつながっていく「線」がある。開幕戦での様子見、中盤戦での火花、そして最終戦での決着――その線をたどってこそ、ケニー・ロバーツというライダーの本当の凄みが見えてくる。

今週は、1978年・1979年・1980年という3つのシーズンを、それぞれ一年ずつ追いかけていく。

1978年 ―― 「新人」がいきなり主役に躍り出た年

ロバーツのルーキーイヤーは、決して「圧勝の一年」ではなかった。

シーズン序盤、王座を守るバリー・シーンはまだ強かった。ロバーツが波に乗り始めたのは、シーズン中盤にかけて連勝を重ねてからだ。列伝で触れた通り、この年ロバーツは全11戦で4勝・8表彰台という成績を残し、500ccクラス史上初のルーキーチャンピオンとなったが、その道のりは終盤までもつれ込む接戦だった。

改めてシーズンの流れを追ってみよう。開幕戦のベネズエラ(サンカルロス)はシーンが制し、王者の貫禄を見せつける。続くスペイン(ハラマ)はパット・ヘネンが勝つと、第3戦オーストリア(ザルツブルクリンク)でロバーツが待望の初優勝を飾った。そのままフランス(ノガロ)、イタリア(ムジェロ)と3連勝を重ね、一気に主役へと躍り出る。だが中盤戦は一筋縄ではいかない。オランダ(アッセン)はジョニー・チェコット、ベルギー(スパ・フランコルシャン)とフィンランド(イマトラ)はウィル・ハルトッグ、スウェーデン(カールスコーガ)はシーンと、勝者は目まぐるしく入れ替わり、ロバーツとシーンの一騎打ちの構図はなかなか決着がつかなかった。

そして最大の焦点は、タイトルがいつ、どこで決まったかだ。

第10戦、8月6日のイギリスGP(シルバーストン)に入った時点で、両者の差はわずか3点。ここでロバーツが優勝しシーンを3位に抑えたことで、リードは一気に8点まで広がった。だが、これでもまだ数学的に確定したわけではない。決着がついたのは、8月20日、最終戦の西ドイツGP(ニュルブルクリンク)。ロバーツが3位でフィニッシュし、4位に沈んだシーンとの差を守り切ったことで、最終ポイント110対100――ロバーツの初戴冠が確定した瞬間だった。

いずれにせよ、確かなのは、ダートトラック仕込みの新人が、初めて足を踏み入れたヨーロッパの舞台で、シーズン終盤まで王者シーンと数点差の接戦を演じ、最後まで薄氷を踏むようにしてタイトルを掴み取った、という筋書きだ。「まぐれの初優勝」では決してなかったことを、この接戦の展開そのものが物語っている。

1979年 ―― 最も過酷で、最も劇的な一年

もし「ケニー・ロバーツを語る上で外せない一年」を一つだけ選べと言われたら、多くのファンが1979年を挙げるだろう。この年には、レースそのものの死闘と、レースの外側での闘い、その両方が詰まっている。

シルバーストンの0.03秒

まず語らねばならないのは、8月のイギリスGP、シルバーストンでの一戦だ。

1979年8月12日。レース序盤からバリー・シーン、ケニー・ロバーツ、ウィル・ハルトッグの3人が集団を抜け出す。だが中盤、ハルトッグが後退すると、残るシーンとロバーツの一騎打ちとなった。28周にわたってトップが目まぐるしく入れ替わる激しい攻防の末、フィニッシュラインを最初に切ったのはロバーツ。シーンとのタイム差は、わずか0.03秒だった。

想像してみてほしい。バイク2台が、ストレートの先で、コンマ数秒を争いながらフィニッシュラインに飛び込んでくる光景を。観客席は総立ちで、テレビ中継を見ていた国中のファンが息を呑んだはずだ。

このレースの最中、シーンがロバーツに向けて中指を立てるジェスチャーを見せた、という逸話も語り継がれている。真剣勝負のさなかにあっても、二人の間には独特の親密さがあった――そんな当時のパドックらしさを物語るエピソードだ。

このシルバーストンの一戦は、単なる「1レースの結果」を超えて、2スト500ccグランプリの歴史の中でも屈指の名勝負として、今なお語り継がれている。

ベルギーGP、レースが壊れた日

そしてもう一つ、この年を象徴する出来事が、7月のベルギーGP――スパ・フランコルシャンで起きた。

列伝でも触れた通り、ロバーツはヴィルジニオ・フェラーリとともに、安全性を理由としたボイコットを主導した。その背景を、もう少し詳しく追ってみたい。

当時のスパ・フランコルシャンは、コースの再舗装工事が予選開始のわずか数日前に終わったばかりだった。路面にはタールの過剰散布などの施工不良があったとされ、予選中には転倒が相次いだ。1979年7月1日、土曜日の予選終了後、ファクトリーチームのライダーたちは一斉にレースをボイコット。これに激怒した観客の一部が暴徒化し、騒乱に発展したという。結局レースは非ファクトリー勢のみで決行され、優勝したのはデニス・アイルランド。これが彼にとって、生涯唯一のグランプリ優勝となった。

このボイコットは、単なる「わがまま」ではなかった。翌1980年、ベルギーGPの開催地はスパ・フランコルシャンからゾルダーサーキットへと変更されている。

レースの主役たちが「これ以上、命を危険にさらしてまで走ることはできない」と声を上げ、それが実際にコース側の変更につながった――ロバーツが体を張って進めてきた「レーサーの権利」のための闘いが、確かに一つの結果を残した瞬間だったと言えるだろう。

そしてタイトルは2度目の栄冠へ

シルバーストンの死闘、スパの騒乱――そんな激動の一年を経て、ロバーツはシーズン終了時点でタイトルを手にした。1979年シーズン最終スタンディングは、1位ロバーツ113点、2位ヴィルジニオ・フェラーリ89点、3位バリー・シーン87点。壮絶な一年を、ロバーツは2年連続のチャンピオンという結果で締めくくった。

1978年が「新人が食らいついた年」だとすれば、1979年は「王者として全方位で戦った年」だった。コースの上でも、コースの外でも。

1980年 ―― 3年目の景色

さて、3連覇を締めくくる1980年は、これまでの2年とは少し違う顔つきのシーズンだった。

まず目を引くのは、開幕からの勢いだ。この年は、予定されていたベネズエラGP・オーストリアGPが中止となり、例年より短縮されたカレンダーで争われた。その中でロバーツは開幕から3連勝。イタリア(ミサノ)、スペイン(ハラマ)、フランス(ポールリカール)と、三戦立て続けに勝利を重ねた。

しかし、その後の展開は1978年・1979年とはまた違う緊張感を帯びていく。序盤3連勝の貯金を築いた後、今度はスズキ勢が猛烈に追い上げてくる。オランダ(アッセン)でジャック・ミデルブルフ、ベルギー(ゾルダー)でランディ・マモラ、フィンランド(イマトラ)でウィル・ハルトッグ、イギリス(シルバーストン)で再びマモラ、そして最終戦の西ドイツ(ニュルブルクリンク)でマルコ・ルッキネッリ――終盤5戦のうち実に4戦をスズキ勢が制するという猛追ぶりだった。最終的な年間ポイントは、1位ロバーツ87点、2位マモラ72点、3位ルッキネッリ59点。

つまり1980年は、「新人ロバーツが下剋上を狙う年」でも「ロバーツが完全に独走する年」でもなく、「貯金で逃げ切る年」だったと言えるかもしれない。序盤に築いた貯金を、終盤スズキ勢の猛攻をしのぎながら守り切る――そんな展開だ。

この年の新しいライバルとして名前を挙げたランディ・マモラも、ロバーツと同じアメリカ出身のライダーだった。「アメリカ人対アメリカ人」という新しい構図が生まれつつあった年だったとも言える。マモラの物語は、また別の機会に譲りたい。

そしてもう一つ、豆知識としても面白い話がある。1980年の年間ランキング5位に名を連ねていたのは、グラツィアーノ・ロッシ。後の9度の世界チャンピオン、バレンティーノ・ロッシの父親その人である。世代を超えたつながりを感じさせるエピソードだ。

こうして、ロバーツは3年連続で500ccクラスの頂点に立った。1978年は「食らいつく年」、1979年は「全方位で戦う年」、1980年は「守り切る年」――同じ3連覇でも、そこに至る道筋は年ごとにまるで違う顔をしていた。

なお、多くの読者が気になっているであろう1983年の激闘については、列伝でもお伝えした通り、この9月の連載では扱わない。あまりに濃密なシーズンであるため、別途独立した特集として企画する予定であることを、改めてここでも一言だけ触れておきたい。

3年間、王座に君臨し続けた男。だが、その道のりを支えていたのは、決して華やかなものばかりではなかった。パドックの奥では、どんな空気が流れていたのか。次週は、レースの記録には残らない「パドック・エピソード」に焦点を当てていく。

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