1979年、磐田で脾臓を失ったキング・ケニー
1979年2月、静岡県磐田。ヤマハのテストコースで、ケニー・ロバーツは脾臓を失った。
レースではない。ただのテスト走行だった。
3年連続で500ccの世界チャンピオンになった男の物語には、スコアシートに載らない部分がある。開発ライダーとしての毒舌、唯一恐れていたという同国のライバル、そしてカリフォルニアの牧場で育てた弟子たち。今週は、記録に残らないケニー・ロバーツを集めてみたい。
この記事の内容
- 1979年2月、磐田のテストコースで
- 図面より、自分の尻で判断する男
- 恐れていたのは、シーンではなかった
- コースの外の"キング"と"レコード"
- 弟子たちを育てた牧場
- 素顔の欠片
1979年2月、磐田のテストコースで
まず紹介したいのは、レースの話ですらない。
1979年2月14日とされるある日、静岡県磐田市――ヤマハのテストコースで、一人のライダーが高速コーナーでフロントを失った。時速およそ160km/hとも、本人の回想では90mph(約145km/h)だったとも伝えられる速度のまま、ライダーはアーマコバリアに背中から突っ込んだ。
その男が、ケニー・ロバーツだった。
前十二胸椎を骨折し、脾臓は損傷がひどく摘出。デイトナ200と開幕戦ベネズエラGPを欠場する大怪我だった。だが、事故からわずか74日後とされる1979年4月29日、ロバーツは第2戦オーストリアGPのスタートラインに立ち――そのままレースに勝ってしまう。
これがシーズン開幕直後の出来事だったことを思うと、あの1979年という年がロバーツにとってどれほど過酷な一年だったか、少し違う角度から見えてくる。シルバーストンの死闘やスパの騒乱の陰に隠れがちだが、シーズンの入り口で、ロバーツはすでに一度、身体を張っていたのだ。
そしてこのエピソードが物語っているのは、単なる「タフな男」という話だけではない。ロバーツが怪我をしたのは、レースの本番ではなく、ヤマハの開発テストの最中だったということだ。
図面より、自分の尻で判断する男
ロバーツは、ただ与えられたマシンに乗るだけのライダーではなかった。
ヤマハに加入した当初から、ロバーツはマシンの弱点を自分の言葉で指摘するタイプの選手だったとされている。
同じインタビューの中で、ロバーツはヤマハの歴代マシンについて、驚くほど率直な評価を残している。1980年に自身を3年連続王者に導いたOW48R(前週まで「OW48」として触れてきたベースモデルから、1980年シーズン中盤以降に排気系レイアウトなどが改良された発展型。ヤマハ公式アーカイブによれば技術的には別モデル扱い)については「あれがヤマハが作った最良のインラインフォーだった。コーナーに思い切り飛び込んで、そのままアクセルを開けられた」と振り返る一方、その後ヤマハが投入した実験的なマシン――スクエアフォー・エンジンについては「あれはまったくの災いだった」、V型4気筒についても「あれも良くなかった」と、にべもなく切り捨てている。ロバーツ自身の言葉を借りるなら、「1981年と82年はOW48Rのまま走らせて、1983年の新型(OW70)まで待つべきだった」というのが、開発ライダーとしての彼の本音だったようだ。
派手なホースパワー競争に飛びつくのではなく、コーナーでの扱いやすさを最優先する――ロバーツの評価軸は一貫していた。数字上のピークパワーでは、ロバーツ自身「調子の良い日で104馬力ほど」だったのに対し、ライバルのスズキ勢は「110馬力以上」出ていたとも語っている。それでも彼が勝ち続けられたのは、マシンの素性を自分の言葉で見極め、開発陣に率直にフィードバックし続けた結果だったのかもしれない。
恐れていたのは、シーンではなかった
ロバーツのライバルといえば、真っ先にバリー・シーンの名前が挙がる。だが、当のロバーツ自身が「唯一恐れていた」と語ったとされる相手は、シーンではなかったという逸話がある。
その名は、パット・ヘネン。1975年にスズキと契約し、1976年、アメリカ人として初めて500ccクラスのグランプリで優勝した男だ。第2週で触れた通り、1978年シーズン第2戦スペインGP(ハラマ)を制したのもこのヘネンだった。
だが、そのヘネンのキャリアは、1978年のうちに悲劇的な形で幕を閉じることになる。スズキ首脳陣の意向で、契約上のリスクを承知のうえでマン島TTへの出場を強いられたヘネンは、時速270km/hを超えるとされる凄まじいクラッシュを喫し、脳に重い損傷を負って、その後グランプリの舞台に戻ることはなかった。
もしこの逸話が事実だとすれば、ロバーツが「恐れた」という言葉の裏には、単なる速さへの警戒だけでなく、開幕2戦目にしてすでに主役級の走りを見せていたヘネンへの敬意があったのかもしれない。そして皮肉にも、そのヘネンを競技人生から奪ったのは、ロバーツ自身が生涯をかけて訴え続けた「レースの安全性」という問題そのものだった。列伝・シーズンレビューで描いてきたロバーツの安全性への執念が、決して大げさな話ではなかったことを、この逸話は静かに物語っている。
コースの外の"キング"と"レコード"
シルバーストンでの0.03秒差の死闘、そしてシーンがロバーツに向けた中指のジェスチャー――その一部始終は、第2週ですでに描いた通りだ。だが、あのレースの後、二人がどんな顔をしていたかまでは、まだ触れていなかった。
ロバーツは後年、あの一戦をこう振り返っている。「最高の走りをするためには、同等の才能を持つ相手と戦う必要がある。俺にとって、それがバリー・シーンだった」。そして、こうも語っている。「コース上で、あいつほど信頼できる相手はいなかった」(Crash.net)。
互いに火花を散らし合いながらも、二人の間には独特の信頼関係があった――ロバーツ自身「彼は俺との戦いの中で安心していたし、俺も彼となら安心して戦えた」(Slick Magazine)とまで語っている。ワールドシリーズ構想を打ち出した際、真っ先に相談した相手の一人がシーンだった、という話も伝わっている。
そして2003年3月10日、シーンが52歳でこの世を去ったとき、ロバーツは深い喪失感を語ったという。その10日前に、二人は最後の会話を交わしていたとも伝えられている。
激しいライバルであると同時に、深いところで互いを認め合っていた二人――パドックの外側にあった、もう一つの「シーン対ロバーツ」の物語だ。
弟子たちを育てた牧場
ロバーツを語るうえで、もう一つ欠かせない場所がある。カリフォルニア州ヒックマンにあった、ロバーツ自身のトレーニング・ランチだ。
もともとは、ロバーツと家族・友人のための練習用ダートトラックだった場所は、やがて「ケニー・ロバーツ・トレーニング・ランチ」として知られる、次世代ライダーたちの育成の場へと育っていく。ここで技術を磨いたとされるライダーの中には、エディ・ローソン、ウェイン・レイニー、そして息子のケニー・ロバーツ・ジュニアといった、のちの世界チャンピオンたちの名前が並ぶ。専門メディアRideApartの記事によれば、リッチ・オリバーやホルヘ・ロレンソもこの牧場で腕を磨いたとされ、さらにスペイン・バルセロナ近郊に設立された同名施設では、セテ・ジベルナウやバレンティーノ・ロッシが少年時代に練習したという逸話も伝わっている。
中でも印象的なのが、ウェイン・レイニーとのエピソードだ。レイニーにとって少年時代からの憧れの存在だったロバーツは、あるとき電話をかけ、レイニーに向けてこう告げたと伝えられている。「そのまま今のやり方を続けろ。お前は勝てるようになる。そして、いずれ気づくはずだ――自分はロードレースについて実はまだ何もわかっていなかった、と」。
また、エディ・ローソンについても、ロバーツが第一線から退いていく時期に、ヤマハのエースの座を引き継いだのがローソンだったという流れが伝えられている。
速さだけでなく、次の世代に何を伝えるか――ロバーツというライダーのもう一つの顔が、この牧場の逸話には表れているように思う。
素顔の欠片
最後に、ロバーツの人となりが伝わる、ちょっとした小話をひとつ。
あるときロバーツは黄色いフェラーリ308を手に入れたが、その使い方が振るっていた。「単に黄色い見た目が気に入ったから買った」という理由で購入した高級スポーツカーを、なんとモトクロスコースで乗り回してしまったというのだ。「高級車になんて興味がない」というのが、本人の弁だったと伝えられている(Motor Sport Magazine)。
またロバーツ自身、こんな言葉を残している。「俺は自分をロードレーサーだと思ったことは一度もない。ただ、AMAグランドナショナルのポイントを稼ぐためにロードレースをやっていただけだ」。この発言も同誌のインタビューで確認できる。
ダートトラックから始まり、気づけばグランプリの頂点に3度も立っていた男。だが本人の中では、最後まで「ダートトラック上がりの一人のライダー」という自己認識が消えなかったのかもしれない。パドックの華やかな脚光の裏側に、そんな飾らない一面があったことも、この連載では記しておきたい。
3週にわたって、ケニー・ロバーツという男を、列伝・シーズンレビュー・パドックの人間模様という3つの角度から追いかけてきた。速さ、闘い、そして人となり――次週はこの9月の連載を締めくくる「まとめ記事」として、ロバーツという一人のライダーが500ccグランプリに何を残したのかを、あらためて振り返っていきたい。