キング・ケニーは何を変えたのか|ロバーツ特集まとめ
ダートトラック上がりの「異物」は、500ccグランプリの何を作り替えたのか。
1978年、カリフォルニアからやってきたケニー・ロバーツは、ルーキーイヤーで世界チャンピオンになった。だがこの男が変えたのは、走り方やタイトルの数だけではなかった。1か月にわたって三つの角度から追いかけてきた話は、実はすべて一本の線でつながっている。今週は、その線をたどり直してみたい。
この記事の内容
- 異物が持ち込んだのは、走り方だけではなかった
- 速さと同じだけ、パドックの構造と闘った男
- 牧場から、次の世代へ
- 1か月を振り返って
- 来月予告
異物が持ち込んだのは、走り方だけではなかった
第1週で書いた通り、1978年のヨーロッパのパドックにとって、ケニー・ロバーツは「異物」だった。カリフォルニアのダートトラックで鍛えられた、リアを流しながら向きを変える荒々しい走法。幼い頃からロードレースの英才教育を受けてきた選手たちの世界に、土の匂いを連れて殴り込んできた新人――それが、当時のロバーツに向けられていたであろう視線だった。
だが、蓋を開けてみれば、その「異物」は全11戦で4勝・8表彰台という成績を残し、500ccグランプリ史上初のルーキーチャンピオンとなった。ニーダウン・ハングオフというスタイルは、ロバーツによってグランプリの景色に定着していくことになる。
そして第2週で追いかけたように、この「異物」は決してまぐれの一発屋ではなかった。1978年は最終戦・西ドイツGP(ニュルブルクリンク、8月20日)まで数点差がもつれ込む接戦を制し、1979年はシルバーストンでバリー・シーンとわずか0.03秒差の死闘を演じ、1980年は序盤の貯金を終盤のスズキ勢の猛追から守り切った。三つの年が三つとも違う顔をしていたという事実こそが、ロバーツの強さが一過性のものではなかったことを物語っている。1978・1979・1980年の3年連続制覇は、500ccクラス単独の記録として、今も「キング・ケニー」という愛称とともに語り継がれている。
「異物」は、いつのまにかグランプリの主役になっていた。だが、ロバーツが本当に変えたのは、走り方やタイトルの数だけではなかった。
速さと同じだけ、パドックの構造と闘った男
第1週・第2週で触れ、第3週でさらに掘り下げたもう一つの顔――それが、ライダーの待遇と安全性のために声を上げ続けたロバーツの姿だ。
1979年、スパ・フランコルシャンでの再舗装工事の施工不良に対して、ロバーツはヴィルジニオ・フェラーリとともにボイコットを主導した。同年末には既存のグランプリ運営に対抗する「ワールドシリーズ」構想を打ち出し、ライダー側からレース運営や安全基準に物を申す姿勢を鮮明にした。そして翌1980年、ベルギーGPの開催地はスパ・フランコルシャンからゾルダーへと変更されている。声を上げたことが、コース側の判断を後押しした一因になったと言えるだろう。
そして第3週で描いた磐田のテストコースでの大クラッシュは、この「安全性への執念」が決して机上の理念ではなかったことを、ロバーツ自身の身体で証明するエピソードでもあった。大怪我からわずか74日後とされる復帰戦でいきなり優勝してしまうという結末も含めて、この一件は、速さと同じくらいの熱量で「ライダーがなぜ安全に走れる環境を求めるのか」を体現していたように思う。
さらに皮肉なことに、第3週で触れたパット・ヘネンのマン島TTでの重傷は、ロバーツが生涯をかけて訴え続けた「レースの安全性」という問題が、決して大げさな話ではなかったことを静かに物語っていた。
速さで魅せながら、同時にパドックの構造そのものに挑み続けた――それが、ロバーツという男のもう一つの顔だった。
牧場から、次の世代へ
そして第3週の終盤で紹介した、カリフォルニアの練習牧場の話も、実はこの「構造を変えた男」というテーマの延長線上にある。
ロバーツは自分が拓いた道を、次の世代に惜しみなく手渡した。エディ・ローソン、ウェイン・レイニー、そして息子のケニー・ロバーツ・ジュニア――ロバーツの牧場で腕を磨いたとされるライダーたちの名前は、そのままグランプリの次の時代を担う顔ぶれと重なっていく。1990年には、自身が設立したチーム・ロバーツから、ウェイン・レイニー(500ccクラス)とジョン・コシンスキー(250ccクラス)による二階級同時制覇という快挙が生まれた。
そして2000年、息子のケニー・ロバーツ・ジュニアがスズキのマシンで500ccクラスの世界チャンピオンに輝く。父子そろっての500ccクラス制覇は、グランプリ史上初めてのことだった。ダートの土埃を連れてグランプリに殴り込んできた男の血脈と教えは、こうして次の世代、さらにその次の世代へと受け継がれていった。
なお、多くの読者が気になっているであろう1983年――ロバーツと、当時台頭してきた若きライバルとの世界タイトル争いについては、この9月の連載ではあえて深追いしなかった。あまりに濃密で、あまりに象徴的な一年であるため、独立した番外編としてあらためて特集する予定であることを、ここで改めてお伝えしておきたい。
1か月を振り返って
ダートトラック出身の「異物」が、グランプリの走り方を変えた。速さだけでなく、パドックの構造――ライダーの発言権や安全性という土台そのものに切り込んだ。そしてその闘いの成果を、自らの手で次の世代に手渡した。
列伝・シーズンレビュー・パドック・エピソードという3つの角度から見えてきたのは、単に「速かった男」ではなく、500ccグランプリという競技そのものを、内側から作り替えていった男の姿だった。ケニー・ロバーツという名前が、今も「キング」という称号とともに語り継がれている理由は、きっとそこにあるのだろう。
来月予告
ロバーツが体を張って切り開いた「ライダーの安全性」というテーマは、この9月だけで終わる話ではない。
来月取り上げるライダーは、8月に特集したライダーと同じ国の出身で、1982年に500ccクラスの世界チャンピオンに輝いた人物だ。当時のマシンは、日本の名門メーカーのひとつを駆っていた。そして現役引退後、そのキャリアの中で就いたある役職が、今月ロバーツが命がけで訴え続けてきたテーマと、静かにつながっている――レースの安全性を統括する、セーフティオフィシャルという立場だ。
ロバーツが声を上げ、身体を張って切り開いた道の先に、その道をさらに制度として支えていくことになる一人のライダーがいた。その物語は、来月あらためて詳しく追いかけていきたい。