1970〜80年代、2ストローク500ccの世界グランプリを走った男達を、毎月1人ずつたどる読み物です。

空港の金属探知機が鳴る男|バリー・シーンの笑いの使い方

バリー・シーン

パドックに響く笑い声

1970年代のグランプリ・パドックを想像してみてください。

排気ガスとオイルの焼けた匂い。工具の音、忙しく走るスタッフ。ピリピリした空気の中、誰もが押し黙ってレースの準備をしている。——その静寂を破って、どこからか笑い声が聞こえてくる。

声の主を探す必要はない。バリー・シーンだ。

彼の周りにはいつも人がいた。メカニック、ジャーナリスト、ライバルチームのスタッフ、そしてカメラマン。シーンは誰に対しても軽口を叩き、誰の冗談にも笑い、そして誰よりも速かった。「レースの前は神経を研ぎ澄ませるもの」という常識を、彼は鼻で笑った。

「緊張して速くなるなら、いくらでも緊張するさ」

こうした発言の一言一句は伝聞の域を出ないが、シーンがパドックの空気を変えた男だったことは、当時を知る誰もが認めるところだろう。

コックニーの舌

シーンはロンドンの下町育ち。いわゆる「コックニー」の訛りと機知を生涯持ち続けた。

記者会見は彼の独壇場。難しい質問には冗談で切り返し、退屈な質問には皮肉で応じる、それでいて相手を不快にはさせない。テレビカメラが向けられれば、視聴者が聞きたい言葉を的確に選んだ。後年、解説者として第二のキャリアを築けたのは必然だったのかもしれない。彼は「話す才能」においてもグランプリ級だったのだ。

興味深いのは、その饒舌さが「計算」でもあったという点だ。シーンはスポンサーの価値を誰よりも早く理解したライダーの一人だったとされる。自分が目立てば目立つほど、チームに金が集まり、マシンが速くなる。パドックの道化を演じることは、彼にとって戦略の一部でもあったのだろう。

ステファニー

シーンの傍らには、いつもステファニー・マクリーンがいた。

二人はグランプリ・パドックで最も有名なカップルとなった。金髪のスターライダーと美しいモデル。タブロイド紙が放っておくはずがなかった。

だが、華やかな写真の裏でステファニーが引き受けていたものを想像してほしい。

夫は毎週末、時速300km近い世界に出ていく。1975年のデイトナでは300km/h近いスピードで転倒、両大腿骨、手首、鎖骨などを骨折。1982年のシルバーストーンでは、練習走行中に転倒車に激突、またしても両脚などを骨折。これらの事故で瀕死の重傷を負ったとされる。そのたびに彼女は病室で待ち、リハビリを支え、そして再びコースへ送り出した。

「ライダーの妻」という言葉では足りない。彼女は妻というだけでなく共にレースを戦う戦友でもあったのだろう。二人は後にオーストラリアへ移り住み、シーンの最期まで連れ添うことになる。

サイボーグ・ジョーク

シーンの身体には、度重なる手術で多数のボルトやプレートが埋め込まれていたとされる。だが、本人はこれを隠すどころか、最高のネタにしていたという。

空港の金属探知機が鳴るたびに笑い話にし、「俺の脚はメカニックが組んだ」と冗談を飛ばす。X線写真は世界に配信され、彼の代名詞となった。

ここに、シーンという男の本質があると思う。

痛みや恐怖を「なかったこと」にするのではない。それを笑いに変換することで、恐怖に居場所を与えない。デイトナの後もシルバーストーンの後も、彼が驚異的な早さでコースに戻れたのは、この精神の使い方と無関係ではないだろう。

1982年、シルバーストーン

そのシーンをもってしても、1982年の事故は限界に近いものだった。

イギリスGPの練習走行中、前出のようにシーンは高速度で転倒。両脚に壊滅的な損傷を負い、キャリアは事実上、この事故によって終わりへと向かい始めることとなる。

それでも彼は復帰した。表彰台の中央にはもう届かなかったが、走ることをやめなかった。1984年に引退し、現役を退くまで、ゼッケン7番はコース上を走り続けた。

最後のジョークまで

引退後のシーンはオーストラリアで解説者となり、その語り口で新しいファンを獲得した。ヒストリックレースでは自らマシンにまたがり、白髪になってもその速さは健在だった。

2002年7月、食道と胃のがんと診断される。しかし、彼は闘病中もユーモアを失わなかったと伝えられる。そして2003年3月10日、52歳で惜しまれつつこの世を去った。

パドックの笑い声は消えた。だが、あの時代のグランプリを愛した者の記憶の中で、7番のヘルメットのドナルドダックは、今も少し怒った顔で笑っている。

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