1970〜80年代、2ストローク500ccの世界グランプリを走った男達を、毎月1人ずつたどる読み物です。

フランコ・ウンチーニ、王者の座についた1982年

フランコ・ウンチーニ

1976年、フランコ・ウンチーニという寡黙なイタリア人ライダーが、250ccクラスのグランプリパドックに姿を現した。ミラーサングラスの奥に表情を隠し、チームのトランスポーターに一人で寄りかかっている——そんな姿が当時の関係者の記憶に残っているという。この物静かな男が、6年後の1982年、500ccクラス世界チャンピオンの座に就くとは、当時誰が想像しただろうか。

この記事の内容

  • 「表彰台よりも孤独」だった新人時代
  • ハーレー・ダビッドソンで学んだ教訓、1977年
  • 父が買ったRG500 ―― 1979年からの賭け
  • 王者が去った席に、1982年
  • 最後のイタリア人王者、そしてその先へ

「表彰台よりも孤独」だった新人時代

ウンチーニの経歴は、グランプリよりずっと前から始まっている。1955年3月9日、イタリア中部マルケ州レカナティ(マチェラータ県)に生まれたウンチーニは、19歳のとき、イタリア国内の市販車レースでラベルダのSFCに跨って周囲を驚かせた。その後ドゥカティのファクトリー入りでプロとしてデビューし、イタリア選手権のタイトルをいくつも手にしたとされる。

グランプリの舞台に上がったのは1976年、ヤマハに乗っての250/350ccクラス参戦だった。だがパドックでの彼の評判は、走りの速さより先に「無口で近寄りがたい男」というものだった。ミラーサングラスをかけ、輪の中に入らずチームのトランスポーターに寄りかかっている――そんな新人時代の姿が伝わっている。華やかに登場したライダーというより、静かに、一人で結果を積み上げていくタイプだったのだろう。

ハーレー・ダビッドソンで学んだ教訓、1977年

翌1977年、ウンチーニはハーレー・ダビッドソン(実質はアエルマッキ製のレーサー)へ移り、250/350ccクラスで2勝(ネイションズGP、チェコスロバキアGP)を挙げてランキング2位につけた。この年はチームメイトのワルテル・ヴィラとの確執が深刻化し、翌年再びヤマハへ戻ることになった。

興味深いのは、この1977年の時点で、すでにロベルト・ガリーナ率いるスズキのチームからウンチーニに500ccクラスへの誘いがあったという点だ。だが当時のウンチーニはこれを断り、もう少し経験を積む道を選んだ。ガリーナからの誘いはその後も毎年のように続いたが、ウンチーニは条件面で折り合わず、家族の支援を受けた自分のプライベートチームでのレースを選び続けた。

父が買ったRG500 ―― 1979年からの賭け

1978年もヤマハで250ccクラスを走ったのち、1979年、ウンチーニは大きな決断をする。父が購入してくれたスズキRG500を駆り、プライベーターとして500ccクラスへの参戦を始めたのだ。ファクトリーの後ろ盾のないなか、この年ウンチーニは5位でシーズンを終え、プライベーター最上位の成績を収めた。翌1980年にはさらに順位を上げて4位でフィニッシュ。これも、その年のプライベーターとしては最高位だった。

同じ500ccクラスで、9月に取り上げたケニー・ロバーツはデビューイヤーでいきなり世界チャンピオンになっている。だがウンチーニの歩みはまったく逆だった。250/350ccクラスで3つのメーカーを渡り歩き、500ccクラスに上がってからも2年間はファクトリーの支援なしに戦い続ける――華やかさとは無縁の、じりじりとした下積みの時間だった。1981年は転倒に苦しめられ、成績を落とした。

王者が去った席に、1982年

転機が訪れたのは、1981年シーズンの終わりだった。その年の500ccクラス世界チャンピオンは、ロベルト・ガリーナ率いるチームのマルコ・ルッキネッリ。だがシーズンオフ、ルッキネッリはホンダへの移籍を決める。王者が去った空席に、ガリーナとスズキが目をつけたのが、長年オファーを断り続けてきたウンチーニだった。今度こそ条件が折り合い、ウンチーニは自らのプライベートチームを畳み、ファクトリー体制のスズキRG500に乗ることになる。

そして迎えた1982年。ウンチーニはオーストリア、オランダ、ユーゴスラビア、イギリス、ネイションズの各GPで5勝を挙げ、ポールポジションとファステストラップも記録して、堂々の世界チャンピオンに輝いた。一説には、タイトルを数戦残して確定させたウンチーニは、残り3戦をすべて完走すらしなかったともいわれる――すでに手にしたものの大きさを物語るエピソードだ。

ガリーナのチームは、こうして1981年・1982年と、異なる2人のライダーで2年連続の500ccクラス世界チャンピオンを送り出したことになる。王者が去った椅子に座った男が、同じチーム・同じマシンで、また王者になる――グランプリの歴史のなかでも、そう頻繁には起こらない巡り合わせだった。

最後のイタリア人王者、そしてその先へ

ウンチーニの通算成績は79戦出走・7勝・21回の表彰台。この1982年のタイトルには、もう一つ大きな意味がある。彼は、2001年にバレンティーノ・ロッシが500ccクラス(この年からMotoGPと呼称)を制するまで、実に19年間にわたって「最後のイタリア人最高峰王者」であり続けたのだ。8月に取り上げたジャコモ・アゴスティーニに続き、イタリアのファンにとってウンチーニは長く特別な名前であり続けた。

だが、栄光の翌年――1983年、ウンチーニはオランダGPで、生死の境をさまよう重大な事故に見舞われることになる。この事故の詳細は、第3週であらためて詳しく追いかけたい。そして事故から生還したウンチーニが、後年FIMのセーフティオフィシャルという立場でレースの安全性に向き合っていくことになる話も、この10月の連載のなかで少しずつ拾っていく。

速さだけでなく、じっと耐える時間の長さもまた、一人のライダーを作る――フランコ・ウンチーニという名前を追いかけるこの10月は、その両方を見ていくことになりそうだ。


10月は、フランコ・ウンチーニというイタリア人ライダーの物語を、5週にわたって追いかけていく。次週はいよいよ、彼が世界を獲った1982年シーズンを、レースごとに振り返っていきたい。

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