1970〜80年代、2ストローク500ccの世界グランプリを走った男達を、毎月1人ずつたどる読み物です。

ウンチーニ、1982年の5勝はこう積み重なった

フランコ・ウンチーニ

1982年3月28日、ブエノスアイレス。南半球の乾いた空気の中で、フランコ・ウンチーニにとって運命の年となるシーズンが幕を開けた。この時点では、まだ誰も予想していなかった。彼がこの年、通算5勝をあげ頂点に立つということを。

この記事の内容

  • 1982年3月28日、ブエノスアイレスの開幕戦
  • サルツブルクの初勝利、そしてノガロの反乱
  • スペインから南仏へ、積み上がる勝ち点
  • シルバーストンの光と影
  • ユーゴスラビアで確定した王座、届かなかった2位
  • 栄光の代償、そして次週へ

1982年3月28日、ブエノスアイレスの開幕戦

開幕戦の主役は、ウンチーニではなかった。優勝したのは9月に取り上げたケニー・ロバーツ。2位に7月特集のバリー・シーン、そして3位には、ホンダの新型NS500でこの年フル参戦を始めたばかりの新人、フレディ・スペンサーが入った。スペンサーの本格的な特集は12月に予定しているため、ここでは「この年、ホンダから新しい3気筒マシンに乗る若者が現れた」という程度に留めておきたい。ウンチーニ自身は、この開幕戦では目立った結果を残せなかったとされる。長い雌伏の時を経てファクトリー体制に乗った1年目、彼のシーズンは静かに始まった。

サルツブルクの初勝利、そしてノガロの反乱

流れが変わったのは、5月2日のオーストリアGP(ザルツブルクリンク)だった。ウンチーニがこの年初めての優勝を掴む。ガリーナのスズキRG500で迎えた新体制が、ようやく結果として形になった瞬間だった。

だが、そのわずか1週間後、パドックは思わぬ方向へ揺れる。5月9日のフランスGP(ノガロ)で、ロバーツ、シーン、スペンサー、そしてウンチーニを含む主だったファクトリーライダーたちがボイコットに踏み切ったのだ。理由は路面のうねりやパドックの安全設備の不備だったと伝えられる。主催者はレース自体を中止せず、残った非ファクトリー勢だけで決行。スイス人ミシェル・フルッチがサンベネロ製のマシンでこの年唯一・生涯唯一の500ccクラス優勝を飾った。9月に取り上げたロバーツが1979年のベルギーGPで主導したボイコットから3年、グランプリのライダーたちは再び同じ理由で声を上げていたことになる。そしてこのノガロというサーキットは、これを最後にグランプリカレンダーへ二度と戻らなかった。フランスGP自体は、翌1983年もル・マンで開催されている。

スペインから南仏へ、積み上がる勝ち点

混乱が過ぎた後、ウンチーニのシーズンは着実に加速していく。5月23日のスペインGP(ハラマ)はロバーツが制し、ウンチーニは3位。しかし1週間後、5月30日のネイションズGP(ミサノ)でウンチーニは2勝目を挙げる。6月26日のオランダTT(アッセン)でも優勝し、これで3勝目。この間、ニュージーランド出身のグレーム・クロスビーがヤマハ(マルボロ・アゴスティーニ)で3位・4位と安定した走りを続けていたことも見逃せない。派手さこそないが、この地道な積み重ねが、シーズン終了時に彼をランキング2位へ押し上げることになる。

7月4日のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)では、ホンダのスペンサーがこの年初優勝を飾った。ウンチーニは3位。そして7月18日のユーゴスラビアGP(リエカ)で、ウンチーニは今シーズン4勝目を挙げる。開幕から4か月、彼はいつの間にか、押しも押されもせぬ首位に立っていた。

シルバーストーンの光と影

8月1日、イギリスGP(シルバーストーン)。この週末は、1982年シーズンを象徴する一戦になった。

決勝で優勝したのはウンチーニ、今シーズン5勝目。2位スペンサー、3位クロスビー。ロバーツがポールポジションを、クロスビーがファステストラップを記録する中、レース自体はウンチーニが危なげなく制した。だが、その数日前、日曜の決勝を待たずして、パドックにはまったく別の衝撃が走っていた。

水曜のフリー走行中、バリー・シーンは時速160マイル(約257km/h)に迫る速度でアビー・コーナーを駆け上がった直後、視界の先に、転倒したフランス人ライダー、パトリック・イゴアのマシンが横たわっているのを見た。避けきれず激突。シーンは両脚と腕を骨折する重傷を負い、その日のうちにシーズンを終えることになった。

同じ週末、同じサーキットで、一人はタイトルへ大きく前進し、もう一人は選手生命を揺るがす大怪我を負った。1982年という年を語るとき、この対比を抜きにしては語れない。

ユーゴスラビアで確定した王座、届かなかった2位

シルバーストーンでの勝利は、事実上のタイトル確定に近いものだったとされる。シーンという最大のライバルの一人が戦列を離れ、ロバーツとの点差も大きく開いていたためだ。一説には、ウンチーニは数戦を残してタイトルを確定させ、残り数戦は全力で走る必要がなかったとも言われる。

最終的な1982年シーズンは、ウンチーニが103点で王座を獲得。2位にはクロスビーが76点で続き、彼にとって生涯最高位のシーズンとなった。3位はスペンサー、4位ロバーツ、5位シーン。

そしてもう一人、忘れてはならない名前がある。前年のチャンピオン、マルコ・ルッキネッリだ。ホンダへ移籍しNS500を託されたルッキネッリは、この年8位・43点に沈んだ。王者から一転、苦しいシーズンを強いられたことになる。空いた椅子に座ったウンチーニが頂点に立ち、その椅子を去った男が苦戦する――1981年から1982年にかけて、ガリーナのチームとホンダの間で起きたこの対照は、グランプリの歴史の中でもとりわけ皮肉な巡り合わせだったと言えるだろう。

栄光の代償、そして次週へ

こうして1982年、フランコ・ウンチーニは開幕戦での静かなスタートから、ノガロの混乱、シルバーストーンの光と影を経て、最終的に世界チャンピオンの座を掴んだ。5勝という数字だけを見れば地味に映るかもしれない。だが、そこに至るまでの一年を線でたどると、決して平坦な道のりではなかったことが見えてくる。

そして、この栄光の翌年――1983年、ウンチーニは前年のシルバーストーンで見せた強さとはまったく違う形で、再びグランプリの歴史に名を刻むことになる。オランダGP、アッセンでの出来事だ。次週は、そのパドック・エピソードにも焦点を当てていく。

10月はフランコ・ウンチーニの物語を5週にわたって追いかけている。今週は彼が世界を獲った1982年シーズンをレースの流れとともに振り返った。次週は、王者となった翌年に彼を襲った出来事について詳しく取り上げる。

▶ 関連動画(YouTube)