ウンチーニ、2013年からFIMの安全担当へ
2013年、フランコ・ウンチーニはFIMグランプリ・セーフティオフィシャルという役職に就いた。1982年に500ccクラス世界チャンピオンとなり、その翌年、オランダ・アッセンで生死の境をさまよった男が、今度はレースの安全を統括する側に回った瞬間である。10月にわたって追いかけてきたウンチーニの物語を、ここで一度、線としてつなぎ直しておきたい。
この記事の内容
- 2013年、セーフティオフィシャルに就いた男
- スパから3年、ノガロで隣にいた男
- アッセンで起きたこと、届かなかった表彰台
- 声を上げた男と、体で知った男
- 制度として残ったもの
2013年、セーフティオフィシャルに就いた男
フランコ・ウンチーニの通算成績は、79戦出走・7勝・21回の表彰台。1982年、ロベルト・ガリーナ率いるチームのスズキRG500で500ccクラス世界チャンピオンに輝いた男は、2001年にバレンティーノ・ロッシが同クラスを制するまで、19年にわたって「最後のイタリア人最高峰王者」であり続けた――その歩みは、第1週で追いかけた通りだ。
1985年、ウンチーニは静かに現役を退く。だが彼の物語はそこで終わらなかった。2013年、ウンチーニはFIMグランプリ・セーフティオフィシャルに就任する。コースの安全基準やレース運営の安全面に関わる役職とされ、その任は2022年まで、10年にわたって続いた。世界チャンピオンだった男が、今度はライダーたちの安全を守る制度の側に立つ――その転身は、決して唐突なものではない。
スパから3年、ノガロで隣にいた男
9月に取り上げたケニー・ロバーツは、1979年のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)で、路面の再舗装工事の施工不良に対してボイコットを主導した。安全性の問題に声を上げる――ロバーツはそれを現役ライダーとして体現した男だった。
その3年後、1982年5月9日のフランスGP(ノガロ)で、同じ理由によるボイコットが再び起きる。このとき列に加わっていたのは、ロバーツ、バリー・シーン、フレディ・スペンサー、そしてフランコ・ウンチーニだった。第2週で書いた通り、この年のウンチーニはまだシーズン序盤、王座への足がかりを作っている最中だった。そしてこのノガロというサーキットは、これを最後にグランプリカレンダーへ二度と戻らなかった。ロバーツが声を上げた現場から3年後、ウンチーニもまた、同じ理由で声を上げる側に立ち、その声はサーキット一つを地図から消すだけの重みを持っていたことになる。
アッセンで起きたこと、届かなかった表彰台
そもそも1982年、王座を掴んだシーズンのさなかにも、安全性の脆さを示す出来事はあった。8月1日のイギリスGP(シルバーストーン)でウンチーニがこの年5勝目を挙げた同じ週末、バリー・シーンはコース上の事故に巻き込まれ、大怪我でシーズンを終えている。第2週で書いた「光と影」は、栄光の年にすでに差していた影だった。
そして翌1983年6月25日、オランダ・アッセンの決勝レース序盤、ウンチーニは単独でハイサイドを起こしかけ持ち直そうとしたが転倒してしまった。コース外へ逃れようとしたが、コーナーを立ち上がってきたワイン・ガードナーのマシンと接触。詳しい経過は第3週で書いた通りで、これは誰の不注意による事故でもない。
ウンチーニはオランダ・フローニンゲンの病院に運ばれ、昏睡状態に陥った。本人が後年語ったところによれば、意識が戻るまでに要したのは5日間だという。1984年、ウンチーニはグリッドに復帰したが、一度も表彰台に立てないまま終わった。1985年、現役を退く。わずか2年前には世界の頂点にいた男が、二度とそこへ戻れないまま、静かにキャリアを終えたことになる。同じ1983年、7月31日のイギリスGP(シルバーストーン)ではノーマン・ブラウンとペーター・フーバーの2人が命を落としており、この年が500ccクラスの安全性が繰り返し問われた年だったことは、第3週でも書いた通りだ。
声を上げた男と、体で知った男
ロバーツは、現役のまま声を上げた。ボイコットを主導し、シーズンオフには既存の運営に対抗する「ワールドシリーズ」構想を打ち出し、ライダー側から安全基準に物を申し続けた。ウンチーニもまた、1982年のノガロで同じ列に並んだ一人だった。
だがウンチーニは、その先で、ロバーツとは違う形で安全性の問題と向き合うことになった。声で訴えるのではなく、自分の身体でその欠如を知ることになったのだ。1983年のアッセンは、ウンチーニにとって、安全性という言葉が抽象的な理念ではなく、5日間の昏睡という具体的な重さを持つ言葉になった瞬間だったのだろう。
声を上げた男と、身をもって知った男。2013年、その二人の歩みは、ウンチーニがFIMのセーフティオフィシャルに就くことで、静かに一本の線としてつながった。
制度として残ったもの
9月、ケニー・ロバーツを追いかけたこの連載は、その末尾でこう予告していた。「ロバーツが声を上げ、身体を張って切り開いた道の先に、その道をさらに制度として支えていくことになる一人のライダーがいた。」フランコ・ウンチーニこそ、その人物である。
ウンチーニがセーフティオフィシャルとして具体的に何を変えたのか、その一つひとつをここで数え上げることはしない。だが、現役時代に頂点を極め、その直後に安全性の欠如を最も過酷な形で味わった男が、10年にわたってその制度を作る側に座り続けた事実は、それ自体が一つの答えのように思える。
速さで名を残す王者もいれば、痛みの記憶を制度に変えて名を残す王者もいる。フランコ・ウンチーニという名前は、その両方を体現した、数少ない例の一人なのだろう。
10月は、フランコ・ウンチーニというイタリア人ライダーの物語を、4週にわたって追いかけてきた。下積みの長かった新人時代、頂点に立った1982年、そして王座を手放すことになった1983年の事故――今週はそれらを、安全性というテーマで結び直した。次週は最終週、1982年のグリッドの風景を、あらためて振り返る。