1982年、500ccグリッドに並んだ日本4メーカー
1982年、フランコ・ウンチーニがスズキRG500で世界チャンピオンの座に就いたとき、同じグリッドにはホンダの新型3気筒NS500、V型4気筒への転換に挑むヤマハ、そして最後の意地を見せるカワサキKR500が並んでいた。日本の4メーカーが500ccクラスの頂点をめぐって同時にしのぎを削った、めったにない年であった。ウンチーニの王座がどれほど激しい戦いのなかで獲られたものだったか、この年のグリッドを見渡すとよくわかる。
この記事の内容
- 1982年、グリッドに4メーカーが揃っていた
- スズキRG500 ── ウンチーニが駆った王者のマシン
- ホンダNS500 ── 3気筒で殴り込んできた新参者
- ヤマハ ── スクエア4からV型4気筒への転換点
- カワサキKR500 ── 最後の年になった一台
- もう一人のアメリカ人 ── 11月への布石
1982年、グリッドに4メーカーが揃っていた
1982年の500ccグランプリは、全12戦で争われた。グリッドの先頭に並んだのは、スズキ、ホンダ、ヤマハ、カワサキという日本の4メーカー。それぞれがまったく違うアプローチのマシンを持ち込んでいた点が、この年を特別なものにしている。王者となったウンチーニのスズキRG500、この年デビューしたホンダの3気筒NS500、スクエア4からV型4気筒への切り替えの最中にあったヤマハ、そして参戦3年目で最後のシーズンを迎えていたカワサキKR500。ライダーで言えば、ウンチーニ、ケニー・ロバーツ、バリー・シーン、フレディ・スペンサー、グレーム・クロスビーといった名前が同じ舞台に立っていた。
そしてこの1982年こそ、日本の4メーカーが500ccクラスの最高峰で同時にファクトリーチームを走らせた、最後の年になる。カワサキはこのシーズンを最後にグランプリから撤退することになるからだ。
スズキRG500 ── ウンチーニが駆った王者のマシン
ウンチーニが1982年に駆ったスズキRG500は、水冷2ストロークのスクエア4エンジンを積んだマシンだった。この構造やディスクバルブ、パワーバンドの特性、市販レーサーとしてプライベーターにも供給されていたことなど、RG500そのものの詳しい話は、7月にお届けした「バリー・シーン編」第5週の記事ですでに書いている。ここでは「ウンチーニの王座を支えた一台」とだけ記しておきたい。マシンそのものに興味のある方は、そちらもぜひ読んでみてほしい。
ホンダNS500 ── 3気筒で殴り込んできた新参者
1982年、ホンダは2ストロークV型3気筒のNS500を投入し、500ccクラスに殴り込みをかけた。ライバルが軒並み4気筒を選ぶなか、ホンダはあえて3気筒を選んだ。理由は軽さとコンパクトさ。排気量499cc、112度のV型3気筒で約123馬力、乾燥重量は108kgと、当時のライバル勢よりも軽く仕上げられていたという。なお、ホンダのレース活動を統括するHRC(ホンダ・レーシング・コーポレーション)が設立されたのはこの年の9月1日、NS500がすでに開幕戦から実戦を戦った後のことである。
この年のNS500は開幕から実戦投入され、デビューシーズンながら3勝を記録した。最初の勝利は1982年7月4日、ベルギーGP(スパ・フランコルシャン)。フレディ・スペンサーが、ヤマハのバリー・シーンに3.8秒差をつけての優勝だったとされる。この年のNS500はまだ発展途上の新参者に過ぎなかったが、翌1983年、このマシンとスペンサーがどんな物語を作っていくかは、また別の機会に詳しく書きたい。
ヤマハ ── スクエア4からV型4気筒への転換点
ヤマハは1982年、大きな過渡期にあった。前年1981年に投入したスクエア4のYZR500に加え、この年、2ストロークとして史上初となるV型4気筒エンジンを積んだ新型OW61を投入したのだ(4ストロークも含めれば、グランプリ初のV型4気筒は1979年にホンダが投入したNR500になる)。OW61は1982年5月、ザルツブルクで発表され、シーズン第2戦のオーストリアGPでデビュー。ケニー・ロバーツが3位に入っている。
だが新型の熟成は難航したとされ、ロバーツはこの年、ランキングを4位まで落とすことになった。一方、チームメイトのグレーム・クロスビーは従来型のスクエア4を駆り、勝利こそなかったものの安定した表彰台を積み重ね、ウンチーニに次ぐランキング2位でシーズンを終えている。つまり1982年のヤマハ陣営は、新旧2つのエンジン形式を同時に走らせていたことになる。この年に生まれたV型4気筒は、のちにグランプリの主流フォーマットになっていった。
カワサキKR500 ── 最後の年になった一台
カワサキのKR500は、アルミモノコックのシャシーに、ディスクバルブ吸気のスクエア4エンジンを組み合わせた意欲作だった。1980年からグランプリに参戦し、1982年はコーク・バリントンが駆っていたが、世界選手権での最高位はネイションズGPの6位にとどまった。一方でイギリス国内選手権のACU 500ccクラスでは6連勝を飾り、タイトルを獲得している。
そして1982年シーズンを最後に、カワサキは思うような成績が残せなかったことに加え、世界的な景気後退も理由に、グランプリからの撤退を発表する。3年間の参戦で、KR500が世界選手権で記録した最高成績は3位が2回(1981年、オランダとフィンランド)にとどまった。この撤退により、日本の4メーカーが500ccの最高峰に同時にファクトリーマシンを並べる光景は、1982年を最後に見られなくなってしまった。
もう一人のアメリカ人 ── 11月への布石
このグリッドには、もう一人のアメリカ人がいた。9月に取り上げた「キング」ケニー・ロバーツと同じ国から来た男で、同じスズキRG500でウンチーニと同じ舞台を戦っていた。世界チャンピオンにこそなれなかったが、ランキング2位を1980・1981・1984・1987年の4回記録している。
転倒寸前のマシンから体を放り出されかけながら、しがみついて立て直した「セーブ」でも知られ、パドック随一の陽気なキャラクターで人気を集めた男でもある。アフリカの医療従事者に医療用バイクを届けるチャリティ団体「Riders for Health」の共同設立者としても知られる。9月のロバーツ編第2週で「1980年の新しいライバル」として名前だけ登場していた、あの男だ。11月、その正体を詳しく追いかけていく。
10月は、フランコ・ウンチーニというイタリア人ライダーの物語を追いかけてきました。じっくり読んでくださった方、ありがとうございました。
11月は、この年のグリッドにいたもう一人のアメリカ人ライダーの物語が始まります。お楽しみに。